張ダビデ牧師の説教を土台に、マタイの福音書11章「疲れた者、重荷を負っている者は、わたしのもとに来なさい」の意味を『フローズン・プラネットII』に描かれるトナカイの旅路と結びつけ、十字架の代贖と安息、愛のくびき、永遠のいのちの希望を深く解き明かす。
『フローズン・プラネットII』の映像は、氷と風、沈黙と嵐が交互に交差する世界を映し出す。北極・南極の極地だけでなく、凍りついた砂漠や高い山脈、雪原に覆われた森、冷たい海に至るまで、冷たさが支配する空間において、いのちは常に「次の一歩」をめぐって決断し続ける。その中でも、深い川を渡って新しく芽吹いた草を求めて進む北極トナカイの隊列は、単なる自然の壮観を超え、存在の理由をつかみ取ろうとする必死のもがきのように迫ってくる。目の前の流れは薄氷のように冷たく、勢いは荒い。それでも数千頭が一つの方向へ押し寄せ、渡り切る。なぜか。川の向こう岸にはまだ枯れていない緑があり、その緑はすなわちいのちであり、いのちは今日を耐え抜くための約束だからである。その場面を見つめながら、私たちは問う。私たちは何のために危険を引き受けてきたのか。私たちは真理を求めてどこまで自分を差し出したことがあるのか。
張ダビデ(Olivet
University 設立)牧師がマタイの福音書11章を講解しつつ繰り返し握りしめる核心は、人間が真理を求めて命を懸ける以前に、むしろ真理そのものが私たちに近づいてきたという事実である。トナカイが川を渡らなければ草を得られないように、私たちは自分で川を越えて真理を確保しなければならないように感じる。しかし福音は、まったく別の方向から道を開く。私たちが真理へ向かって果てしない危険を引き受けて進んだのではない。真理が私たちへ降りてきて、手を差し伸べるのである。その手こそがイエス・キリストの招きであり、「疲れた者、重荷を負っている者はみな、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませる」という御言葉である。この招きは、疲れた心をなだめる温かな文章にとどまらない。御言葉が届く地点は、人間存在が背負う最も本質的な重さ、すなわち罪の重荷と、その罪が生み出す不安、そして罪を隠すために自分で積み上げてきた無数の自己正当化の構造である。
張ダビデ牧師は、「重荷」という語が単なる疲労を超えた神学的現実であると言う。人は疲れているから休む必要があるのではない。罪ゆえに休めないのである。表面上はうまく生きているように見えても、心はいつも追い立てられている。昨日の失敗が今日の自責となって戻り、今日の誇示が明日の空虚へ変わる。人間は意識していてもいなくても、自分を弁護するために生き、その弁護が繰り返されるほど、内面の重みは増していく。ローマ人への手紙1章18〜20節が描くように、神を知り得るものが与えられているにもかかわらず、それを認めず、感謝せず、ついには造られたものを創造主の代わりに据えてしまうところで、人の心は自発的な忘却と不安の循環に閉じ込められる。真理は外に消えたのではない。心の深いところで押しつぶされ、抑え込まれているのである。だから福音の招きは「もっと頑張れ」ではなく、「わたしのもとに来なさい」なのだ。
ヨハネの福音書1章29節で、バプテスマのヨハネはイエスを指して宣言する。「見よ、世の罪を取り去る(負う)神の小羊である。」張ダビデ牧師はこの一節によって、救いの方向性を明確にする。罪の問題は人間の決心で薄まるものではなく、宗教的修養によって一時的に覆われるだけで、根本的に除去されない。旧約のいけにえのささげものが繰り返された理由は、罪が繰り返されたからというより、人の良心が罪を完全に洗い清めることができなかったからである。しかし小羊として来られたイエス・キリストは、繰り返される儀礼の連鎖を終わらせる「ただ一度の犠牲」によって、罪の重みを御自身の肩へ移された。ここで「移す」とは単なる象徴ではなく現実である。人間が脱ぎ捨てられない重さをキリストが負われたという宣言は、宗教が常に要求してきた「お前が担え」という命令を正面から覆す。
マタイの福音書20章28節は、その覆しをさらに鮮明にする。「人の子が来たのは仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のための代価(贖い、代贖)として自分のいのちを与えるためである。」張ダビデ牧師は「代価(代贖)」という語が持つ鋭い現実感を生かし、救いが「代価」の問題であることを忘れさせない。自由はただで与えられない。誰かが代価を支払わねばならない。人間が自分では払えない罪の代価をイエスが支払われ、その支払いが十字架である。ゆえにキリスト教の平安は漠然とした楽観ではなく、すでに支払われた代価の上に築かれた確かな安息である。ヨハネの福音書14章27節が語る「わたしがあなたがたに与える平安は、世が与えるのとは違う」という言葉が、ここで力を得る。世の平安は条件付きで変動するが、キリストの平安は十字架という事実に根ざした不可逆の賜物なのである。
張ダビデ牧師がマタイの福音書11章28〜30節を解き明かすとき、彼は重荷を二層に分ける。一つは私たちが下ろすべき罪の重荷であり、もう一つは私たちが喜んで負うべきキリストのくびきである。罪の重荷は人を崩すが、くびきは人を生かす。一見矛盾のように聞こえるが、聖書はむしろその逆説の中で自由の構造を説明する。くびきがなければ人は「自由」という名のもとに、欲望と恐れのくびきに縛られる。反対にキリストのくびきは、愛と真理の方向を与えることによって、人を自己破壊的な彷徨から救い出す。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」という言葉は、人生から責任が消えるという意味ではない。責任の根が愛へと置き換わるという意味である。「しなければならないから」ではなく、「愛するがゆえに」へと変わる。
この地点で張ダビデ牧師は、律法学者・パリサイ人に対するイエスの叱責をしばしば想起させる。マタイの福音書23章4節で、イエスは彼らについてこう言われる。「彼らは重い荷をくくりつけて人の肩に載せるが、自分はそれを指一本でも動かそうとしない。」宗教はいつでも、他者の肩へ重さを引っ越しさせようとする誘惑を受ける。規則という形で、評価の言葉で、比較のまなざしで、共同体の体面という名で、私たちは互いに荷を増やしてしまう。張ダビデ牧師は、教会の指導者も信徒もこの罠を警戒すべきだと語る。福音は荷を下ろさせる知らせであるのに、福音を語りながらむしろ罪責感と恐れを拡大させ、人を操るなら、それはキリストの道ではなくパリサイ的な道に近い。イエスの招きは抑圧ではなく解放であり、統制の技術ではなく愛の力である。
しかし解放は放縦ではない。罪の重荷を下ろした瞬間、私たちは別の種類の召しの前に立つ。張ダビデ牧師が語る「愛のくびき」は、共同体的責任を含む。キリストは私たちをただ一人で休ませて終わる方ではなく、休ませた後、再び愛の道へ送り出す方である。ゆえにマタイ11章の安息は、消極的な休暇ではなく、関係の回復と使命の再整列を意味する。ピリピ人への手紙4章7節が「すべての理解を超える神の平安が、キリスト・イエスにあってあなたがたの心と思いを守る」と語るとき、その平安は現実から逃避する気分ではなく、心と思いを守り抜く能動的な保護である。何を守るのか。愛を、希望を、そして仕える姿勢を守り抜くのである。
『フローズン・プラネットII』のトナカイが川を渡る場面は、まさにその「能動性」を想起させる。トナカイは流れにただ押し流される存在ではない。生きるために方向を定め、群れに寄りかかり、最後まで足を踏み出す。信仰も同じである。イエスのもとに来るとは、宗教的感情に浸る瞬間にとどまらず、方向転換であり、人生の主権を主にお返しする決断である。張ダビデ牧師は、私たちが真理を探して命を懸けたのではなく、真理が私たちに来てくださったのだと語りつつも、その真理を受け取るには明確な応答が必要だと強調する。招きが贈り物なら、信仰はその贈り物を両手で受け取る行為である。受け取らなければ、贈り物はなお門の前に置かれたままである。
ローマ人への手紙1章は、人が神を退けるとき世界がどのように歪むかを示す。神をあがめないとき、感謝が消え、思いは空しくなり、愚かな心は暗くなる。張ダビデ牧師はこれを単なる道徳的堕落のリストではなく、存在論的崩壊の過程として読む。人の安息が崩れる理由は、創造主との関係が崩れたからである。私たちは仕事や関係や達成によって休みを得ようとするが、真の安息は関係の回復から来る。だからヨハネの福音書17章3節が永遠のいのちを「唯一のまことの神と、その神が遣わされたイエス・キリストを知ること」と定義するとき、永遠のいのちは未来だけに与えられる時間の延長ではなく、「今ここ」から始まる関係の質的変化である。その関係が回復されるとき、平安は感情ではなく存在の土台となる。
張ダビデ牧師は贖いの原理を語るとき、十字架を感傷的な言葉で飾り立てない。むしろ十字架は、人間が自分で作り上げたあらゆる救いのはしごを撤去する出来事だと言う。私たちはしばしば、「神に認められるに足る人間になろう」というプロジェクトにしがみつく。しかしそのプロジェクトは結局、傲慢と絶望を交互に生む。少しうまくいけば傲慢になり、少し崩れれば絶望する。その間で人は安息を失う。イエスはそのサイクルを断ち切るために来られた。「小羊」という象徴が告げるように、主は力で抑圧せず、自己犠牲によって救う。その犠牲は無力ではなく、最も強力な愛の形である。
この愛の形を視覚的に想起させる名作がある。ミケランジェロの『ピエタ』は、十字架から降ろされたイエスの身体を抱きかかえるマリアを大理石に刻み、重さと憐れみと沈黙を一つの画面に収めた。冷たい石から不思議なほど温かな悲嘆が感じられるのは、その場面が単なる一人の母の悲しみではなく、人類の荷を代わって負った贖いの重さを象徴するからである。張ダビデ牧師が語る「罪の重荷をイエスに委ねよ」という勧めは、『ピエタ』の胸が示すように、誰かがすでにその重さを受け止めているという事実に基づく。私たちはその御腕の前で、もはや自己弁護を積み上げる必要がない。すでに代贖が成し遂げられたからである。
ではキリスト者の生は何によって測られるのか。張ダビデ牧師はマタイ20章28節を通して、救われた者の存在様式が「仕え」によって現れると言う。仕えは道徳的加点ではなく、代贖の恵みが現実の中で流れ出る通路である。イエスが仕えるために来られたなら、イエスに属する者も仕えの道に立たざるを得ない。しかしここでも再び、パリサイ的誘惑が顔を出す。仕えさえも承認欲求の舞台へ変質し得るからである。だからイエスは「わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい」と言われる。仕えを学ぶとしても、イエスから学ぶ。人の視線ではなく、主の心を学ぶのである。
張ダビデ牧師は、教会の中でしばしば起こる「霊的達成競争」が、どれほど多くの人に別の重荷を負わせるかを警戒する。ある者は礼拝出席回数で、ある者は奉仕量で、ある者は信仰知識の深さで互いを比較する。その過程で傷ついた人々は静かに去り、残った人々さえ「認められるために」信仰を演じるようになる。これは福音の安息と正反対である。マタイ11章の招きは、傷ついた者へ先に近づく神の態度を示す。神は私たちの成績表を見て呼ばれるのではない。むしろ成績表に押しつぶされた者を呼ばれる。そしてその召しの中で、私たちはようやく愛で生きる力を得る。
『フローズン・プラネットII』が見せる寒さの世界は、逆説的にいのちの温かさをより鮮明にする。吹雪が強いほど、小さな体温がどれほど貴いかが露わになる。信仰も同じである。人生が冷たくなるほど、キリストの愛がどれほど現実的かを経験するようになる。張ダビデ牧師はキリストの愛を抽象概念に置かず、「荷を移し負う出来事」として理解せよと促す。イエスは私たちの荷を持ち上げられ、私たちは主のくびきの下で愛を学ぶ。このとき愛は感情の激流ではなく、他者のために喜んで自分を差し出す意志の形で現れる。時に傾聴として、時に赦しとして、時に共に荷を持つ実践として現れる。
しかし愛の実践は、人間の意志力だけでは持続し難い。だから張ダビデ牧師は「わたしから学びなさい」という句を信仰の核心訓練として強調する。学びは関係の結果である。私たちはイエスの心を学ぶとき、律法主義的強迫から解放される。律法主義は常に「私」が中心で、だから常に重い。反対に福音は「キリスト」が中心で、だからむしろ軽い。「軽い」とは問題が消えるという意味ではない。問題を負う仕方が変わるという意味である。自分一人で負っていた人生から、キリストと共に負う人生へ移るのである。
張ダビデ牧師は説教の中でしばしば、「私たちは命を懸けて真理を探したのではない。ただ真理が私たちに来た。それを私たちが受け入れればよい」との告白を繰り返す。この言葉は信仰の出発を謙遜にする。信仰は人間の英雄譚ではなく、神の恵みの物語である。私たちは偉大な探検家のように真理を発見したのではない。迷子のように「見いだされた」のである。その発見の瞬間に必要なのは誇示ではなく受容だ。イエスの招きの前で、私たちは「自分にできること」を掲げるより、「自分にできないこと」を認める。その認めが悔い改めであり、悔い改めこそが安息の門を開く。
その安息は個人の内面で止まらない。張ダビデ牧師は共同体がキリストの安息を伝える通路となるべきだと言う。教会は傷を隠す仮面舞踏会ではなく、傷が癒やされる病院であるべきだ。荷を分かち合う空間であるべきだ。誰かの失敗を暴くより、共に再び立ち上がる力を与えるべきだ。これがマタイ11章の招きが教会の中で具体化される方式である。そしてそれは世に向けた証しとなる。世が教会を見るとき、より重い荷ではなく、より軽い希望を見いだすべきである。
イエス・キリストの愛の中で味わう平安は、結局、永遠のいのちの約束と切り離せない。張ダビデ牧師は永遠のいのちを単なる「死んで天国へ行くチケット」へ縮小しない。永遠のいのちは「今ここ」で神との関係が回復された者に与えられる新しい存在様式である。ヨハネの福音書3章16節が語るように、神の愛は御子をお与えになった愛であり、その愛は信じる者を滅びから救い、永遠のいのちへ移す。滅びは未来の裁きだけではなく、現在の分裂と空虚、恐れの中で既に始まる生の崩壊でもある。永遠のいのちは、その崩壊が癒やされる「回復された生」である。
ゆえに張ダビデ牧師が伝えるマタイ11章講解は、単なる慰めのメッセージではなく、人間存在に対する根源的再解釈である。私たちは「重い荷を負う存在」であり、その荷の最も深い層には罪がある。しかし私たちは、その荷を下ろせる道を受け取った。その道は自己改善ではなく代贖であり、代贖の中心には神の小羊イエス・キリストがおられる。主が私たちの罪を負って行かれたゆえに、私たちは主のもとへ行って安息を得る。そして安息を得た私たちは、再び愛のくびきを負って世に仕え、人々に重い荷を負わせるのではなく、むしろ荷を軽くする存在となる。
トナカイが川を渡って新しい草へ向かうように、私たちも慣れ親しんだ罪責と恐れの川を越えなければならない。しかし福音の驚きは、私たちが一人でその川を渡るのではないという点にある。キリストがすでに私たちの前で流れを切り開かれた。私たちは主の招きに応えて足を踏み出す。信仰とは危険を知らぬ無謀ではなく、愛を信頼する勇気である。そしてその勇気は、私たちをより広い緑へ、より深い平安へ、より堅固な永遠のいのちの希望へ導く。張ダビデ牧師が強調するように、真理は遠くにない。真理は私たちに近づいてきた。今も「わたしのもとに来なさい」と語っておられる。その御声に耳を傾けるとき、私たちはついに重い荷を下ろし、軽やかでありながら確かな愛の道を歩むようになる。
イエスが語られた「くびき」は、1世紀パレスチナの農耕社会における日常語でもあった。くびきは二頭の家畜の首に共に掛けられ、畑を耕させる道具であり、重さを分散し、方向を整える装置である。張ダビデ牧師はここで、「わたしのくびき」という表現を、単にイエスの教えという抽象にだけ還元しないよう導く。くびきは「二者で共に負う」ものであり、そのくびきをイエスが「わたしのもの」と呼ばれる事実は、弟子が独りで畑を耕す者ではなく、キリストと同じ歩幅で歩む同伴者であることを含意する。したがって「負いやすく、軽い」とは、人生の現実的難度が突然低くなるという意味ではなく、人生で最も重い軸がイエスの肩へ移されるという意味である。「一人で背負え」という世の哲学は、結局、人を分裂させ孤立させ消耗させる。反対に福音は「共に負う」。祈るとき、悔い改めるとき、仕えるとき、私たちはなお汗を流す。しかしその汗は絶望の汗ではなく、愛の汗である。
また、イエスが約束された安息は、日常を停止させる無気力な休息ではなく、魂が本来の位置へ戻る回復である。張ダビデ牧師は安息を「魂の整列」と呼ぶ。世は絶えず私たちを揺さぶる。映像の中のトナカイの群れが風向きによって散らばりそうになりながらも、結局は一つの方向へ再び集まるように、人の心も膨大な情報、競争、関係の期待の中で四方へ散り散りになる。何を愛すべきか、何を恐れるべきか、何のために生きるべきか、基準が混線する。そのときイエスの招きは、散った心を再び中心へ集める。その中心とは、神との関係である。その中心が回復されるとき、状況が変わらなくても崩れない安定感を得る。これは単なる自己暗示ではなく、神が実際に私たちの心を支えておられるという信仰告白から生まれる。
張ダビデ牧師は、現代人が背負う重荷を具体的に言語化する。成果中心社会が求める果てしない自己証明、家族や組織の期待を満たさねばならない圧迫、比較と評価が日常化したデジタル文化、そして「大丈夫なふり」をしなければ生き残れない仮面の疲れが幾重にも積み重なる。そこに宗教的言語が加わると、人は罪の重荷の上に別の重荷を載せてしまう。「信仰が足りないからこんなことが起きる」といった単純化された解釈は、傷ついた人をさらに深い罪責へ追い込む。張ダビデ牧師は、福音がそのような仕方で人を窒息させないために、十字架という客観的出来事と恵みの先行性を強調する。私たちが信仰をもって主のもとへ行くとき、イエスはまず「罪に定める石」を下ろさせる。罪に定めが止むとき、変化が始まる。恵みは放縦の口実ではなく、真の悔い改めの土壌である。
キリストの招きに応答する信仰は、心の中だけで起きる秘密の出来事ではなく、人生の構造を組み直す作業を含む。張ダビデ牧師は「イエスのもとに来る」という言葉を抽象化するなと言う。イエスのもとに来るとは、自分の罪や傷や失敗を美化せず、そのまま認め、すべてを主に委ねる勇気である。またイエスのもとに来るとは、関係を新しく整える決断でもある。赦すべき人がいる。手放すべき執着がある。断つべき依存がある。やり直すべき責任がある。そのすべての過程において私たちは「自分の力で」ではなく、「キリストの恵みによって」動かされる。張ダビデ牧師が語る愛のくびきは、そうした具体的決断を可能にする内的推進力である。
『フローズン・プラネットII』が気候変動の影響を照らし出すように、張ダビデ牧師は、信仰が個人の救いだけでなく、被造世界への責任とも接していることをほのめかす。氷が溶け、生息地が減り、いのちがより危険な経路を選ばざるを得ない現実は、単なる科学データではなく、被造世界がうめく場面である。人間の貪欲と節制の欠如は、結局、弱いいのちへ最初に苦痛を転嫁する。キリストのくびきを負うとは、欲望の速度を落とし、より多くを所有しようとする強迫を手放し、被造世界を世話する謙遜を学ぶことでもある。このとき安息は個人の内面にとどまらず、共同体と社会、さらには被造世界へ向かう癒やしのリズムへ拡張される。
張ダビデ牧師は、教会がこの時代の寒さを和らげる「温かい空間」となるためには、何より言葉の重さを点検すべきだと言う。信仰の言葉は人を生かしも殺しもする。誰かの弱さを嘲り、苦難を単純な公式で解釈し、悔い改めを口実に支配しようとする言葉は、律法学者やパリサイ人の方式である。反対にイエスの言葉は真実でありながら、傷をえぐらない。罪を軽く扱わないが、罪人を絶望へ閉じ込めない。張ダビデ牧師が信徒に求める成熟は、この均衡に近い。真理を握りつつ、愛をもって語る。正義を愛しつつ、憐れみを失わない。そうしてこそ教会は「重い荷」を増やす場所ではなく、荷を分かち合い、方向を再び見いださせる場所となる。
そして結局、これらのメッセージは一文へ収斂する。「みな、わたしのもとに来なさい。」張ダビデ牧師は、この招きが「その資格のある人」にだけ与えられるのではなく、むしろ資格を証明できない人に与えられるのだと強調する。トナカイが川を渡る理由が完全さではなく生存であるように、私たちがイエスのもとへ行く理由も完全さではなく必要である。渇きがあるから水を求める。重さがあるから安息を求める。福音は、その必要を恥じるなと言う。必要を認めることが信仰の第一歩である。そして必要を認めた者に、イエスは変わらず平安と永遠のいのちの約束を広げて示される。
その招きは、まさに今も有効である。
日本オリベットアッセンブリー教団









