張ダビデ牧師、創世記3章の原始史:堕落、サタンの誘惑、そして女の子孫の福音


張ダビデ牧師が、創世記111章の「原始史」を中心軸として、人間の落とサタンの策略、そして神の裁きと救いの計を精緻に解き明かしつつ、今日を生きる信徒がどのように罪と誘惑を見分け、神の子として回復されたアイデンティティを生きることができるのかを、神的な洞察と的な省察の中で深く論じた文章である。


張ダビデ牧師は、聖書をむ入口として、創世記1章から11章までを「原始史」と呼ばれる一つの大きな物語位として見渡さなければならないと調する。比較的短いこの間の中に、創造と落、裁きと救い、人類の系史の行方が凝縮されたかたちで配置されているからである。創世記12章は創造の序曲を、34章は人間の落と罪の生を、5章は系の流れを、67章は洪水の裁きを、そしてく諸章は新しい救いの軌跡を提示する。張ダビデ牧師は、このような原始史がなる古代承の寄せ集めではなく、人類全体を貫く神的な原型(アキタイプ)であると解する。イエスが「ノアの日に起こったことは、人の子の日にも同じように起こる」と語られた御言葉(ルカ17:26)に照らして見れば、終わりの裁きと救いのパタンを理解するためには、ノアの日、すなわちこの原始史の構造を深く思い巡らさなければならないというのである。


その中でも、創世記3章は人間の落の本質とプロセスを明らかにする中核テキストとして位置づけられる。張ダビデ牧師は、エデンの園に登場する蛇をなる象的な動物ではなく、神に反逆した的存在、すなわちサタンの道具であり表現であるとみ解きつつも、同時に聖書は決して善とという二つの原理が等に立する二元論を語ってはいないことを調する。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、蛇が最も狡猾であった」という一節は、サタンさえも被造物の地位に置かれていることを思い起こさせる。初めから神とサタンという二人の絶者が互角にっている構ではなく、主者である神が造られた世界の中で、一つの被造物が高慢によって落した出事なのだ、ということである。


張ダビデ牧師は、サタンの落の深層原因を「自己高揚の高慢」と規定する。神と張り合おうとする欲望、神と同じ座を狙う的衝動こそ、すべての罪の根源だと分析するのである。この点で彼は自然にピリピ人への手紙2章を想起する。落した的存在が自己誇示と自己大によって崩れ去ったのにし、神の御子はむしろご自分を空しくし、しもべの姿を取られた。ケノシス(kenosis)、すなわち自己を無にし、自ら進んで低くなられるキリストの道は、サタンの道と本質的に正反の軌跡である。張ダビデ牧師の解によれば、まさにこの謙遜と順の道を通してサタンはすでに裁きを受け、罪と死が支配していた秩序は根本から覆されたのだという。


多くの人が神義論的な問いを投げかける。「もし神が全能なら、そもそもアダムとエバが善の知識の木のを食べられないように設計すればよかったのではないか。なぜ倒れる可能性のある構造をお許しになったのか」と。張ダビデ牧師は、この問いが神における古くからの難問であることを認めつつも、その答えの中心には「愛」というテマが置かれていると明する。神は人間に「生めよ、えよ」(Be fruitful)と命じられた。この「を結ぶ」という言葉は、なる人口加を意味しない。愛の一致が完成した態、すなわち「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、わたしがあなたがたのうちにいることを知る」(ヨハネ14:20)という係の成熟を指し示している。愛は制によって生み出すことはできず、リモコンで操られるかのように動く存在からは、決して真実の愛はき出てこない。全能の神が人間を、操りやすい人形ではなく、自由意志によって愛を選ぶことのできる人格的存在として造られたのは、危悟した決というよりも、むしろ創造の光と愛の尊さを現わす宣言なのだ、というのである。


この論理は天使たちにも張される。ユダの手紙1章は、ある天使たちが自分の地位を守らず、自分の住まいを離れて神に反逆した結果、「大いなる日の裁きまで、永遠の鎖で暗闇に閉じめられた」と証言している。見えない的存在でさえ、自由意志を持つ被造物として、順と反逆を選ぶことができ、その責任を免れることはできなかったという意味である。張ダビデ牧師は、ここに重要な神的バランスがあると指摘する。問題の根源は神にあるのではなく、善きものとしてえられた自由を誤用した被造物側にある。神はの設計者ではなく、によって痛み、嘆かれる被害者であられる。ゆえに、「神が世界を間違って造ったからこのような悲劇が起きたのだ」といった責任嫁は、創造主にする重大な誤解であり、別の形の反逆であると彼は警告する。


創世記3章に登場する蛇の最初の言は、神の言葉にするあからさまな挑である。神が「取って食べるなら、必ず死ぬ」とはっきり警告されたにもかかわらず、蛇は「決して死ぬことはない」とっ向から反の宣言をする。張ダビデ牧師は、この短い一文の中にサタンの略が凝縮されていると見る。まず神の言葉に疑念を抱かせ、理にする信るがし、そのうえで理をりに、りを理に逆させるのである。しかし、なる論理的反論だけでは人間の心を完全につかむことは難しい。そこでサタンは、そこに甘い誘惑と微妙な嫉妬心を巧みに混ぜ合わせる。「神は、あなたがたが神のようになり、善を知るようになることを知っておられる」というささやきは、神を愛の創造者ではなく、良いものを占しようとする存在として歪め、人間の側にひそやかな反抗心と落ち着かない不信を育てていく。



張ダビデ牧師は、罪を犯した存在の特を「一落させようとする衝動」と診する。自ら罪を犯した後、深い不安にった心は、責任を一人で負うよりも、他の人み、罪を正常なもの、集的なものとしてしまうことで不安をめようとする。だからサタンは執拗に人間を誘惑し、「一に滅びよう」という心境で罪の集いをげていく。が「天の星の三分の一が落ちた」と描するとき、張ダビデ牧師はこれを、サタンが他の天使たちまで惑わして落させた出事を象的に表しているとみ解く。今日の文化全般において、歪んだと罪が構造化され、さまざまなコンテンツや世論を通して繰り返し再生産されている現象も、同じ的原理の上に立っていると解するのである。


もう一つ重要な洞察は、エデンにも明確な戒めが存在していたという事である。人は時に、天をあらゆる制約がない自由空間のように想像するが、聖書はそう語らない。善の知識の木にする禁令は、創造主であり絶者である神が人間にえられた明確な境界線であった。天とは、「したいことを何でもしてよい場所」ではなく、愛のうちに自的に神の御心にう秩序の世界である。戒めが存在するということは、愛が損なわれている印ではなく、愛がどのように具体的に表現され、守られるべきかを示す柵なのだ。


しかし、蛇の視点から見ると、この戒めは抑の象として映る。そこでサタンは、「なぜ神だけが善とを定める最終基準でなければならないのか。おまえもその座に就くことができる」というささやきを吹きむ。張ダビデ牧師にとって、これこそが高慢の核心である。何が善で何がか、何がで何がかを最終的に判できるのはただ神だけであるのに、その座を被造物が奪い、自ら善の根源的基準になろうとする瞬間に、落の門が開かれるのである。現代社で「それぞれが自分で善を決めればよい」「絶理は存在しない」といったスロガンが魅力的に聞こえる理由もここにある。自由という名のもとに善の基準そのものを解体してしまえば、やがて世界全体が相主義と極端な自己中心性の洪水の中に沈みんでしまう。


では、具体的に落はどのような過程をたどるのか。張ダビデ牧師は、「女がその木を見ると、それは食べるのによく、目に麗しく、賢くしてくれそうに慕わしい木であった」という一節に注目する。この短い表現の中に、誘惑の典型的な三段階が含まれている。まず目で見(目の欲)、心で欲しがり(肉の欲)、ついには手を伸ばして取る行く(暮らし向きの誇り)。ヨハネの第一の手紙2章が明する世の欲の構造が、創世記の本文の中で物語として再現されているわけである。今日の性的誘惑や物質主義的誘惑も同じ路をたどる。映像やイメジが視線を奪い、想像力と欲望を刺激し、やがて行動と習慣へと固まっていく。だからこそ張ダビデ牧師は、何よりも「何を見るのか」にをつけるようめる。罪はすでに口でうずくまり、私たちが顔をのぞかせるとすぐにでも捉えようと待ち構えているのである(創世記4:7)。


創世記4章でカインが弟アベルをねたみ、ついには殺害に至る過程も、同じ構造にっている。神がアベルのささげ物だけを受け入れられたとき、カインは驚きと恐れのうちにみを悟るべきであった。罪人のささげ物が受け入れられたという事そのものが、すでに過分な恩寵だからである。ところがカインは、神のみを喜びと感激ではなく、怒りと傷として受け止め、その中で育った嫉妬とねたみが、ついには殺人の罪へとつながっていく。張ダビデ牧師はこれを、人間の罪性の核心である「自己中心性(エゴセントリズム)」として分析する。自分を基準に神と他者を評し、みの前でさえ「なぜ自分はもっと認められないのか」と問う姿勢こそが、罪の深淵なのだという。


かといって、人間が完全に闇としてだけ規定されるわけではない。張ダビデ牧師は、「二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った」という表現に、人間存在の特な面性が現れていると見る。罪を犯した瞬間、人間はそれが間違いであることを直感的に知る。羞恥心と恐れが押し寄せ、いちじくの葉で慌てて自分を覆おうとする。動物は恥を知らず、本能のままに生きるが、人間は理から離れるとき、存在論的な恥と存的な不安を経験するように造られている。これは、人間の魂の深くに神へと向かう本能的な方向性が刻みまれているしるしである。ひまわりが太陽の方へ向きをえるように、人間の魂は本、創造主の方へと傾いている。罪はこの方向を歪め、ぼやけさせるが、その的な刻印を完全に消し去ることはできない。


いちじくの葉を編んで作った衣は、人間の自己義認を象するイメジとしてむことができる。人は自分の罪をすために、道や宗、体面や業績という葉を慌ただしく編んで腰にくが、神の前では依然として裸の存在であることを免れない。驚くべきことは、神がこのようなアダムとエバをすぐさま滅ぼしてしまわれるのではなく、かえって革の衣を作って着せられたという事である。張ダビデ牧師は、この場面を「先取りされたみのしるし」と解する。誰かの血の流しと牲を前提にして初めて手に入る革の衣は、のちにキリストの十字架において完成する贖いと義の衣をあらかじめ示す予表である。罪ゆえに恥と恐れの中に身をした人間にして、神は先に近づいてこられ、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけ、その恥を覆ってくださるのである。


ここで張ダビデ牧師は、神の御のニュアンスをとりわけ調する。「あなたはどこにいるのか」という言葉は、怒りにちた叱責ではなく、打ちかれた魂を探し出そうとされる、切なる愛の呼びかけである。この問いこそが、救いの出点である。神は罪人に向かって、まず「なぜそんなことをしたのか」と詰問されるのではなく、「今どこにいて、なぜわたしを避けているのか」と問われる。今日を生きる信徒にしても、この問いはなお有である。夜の間に蛇の誘惑に負けて心が崩れてしまったとしても、朝になって再び神の御前に出て、「主よ、ここにおります」と答えることが、回復への第一なのだと、張ダビデ牧師はめる。


しかし、落の物語で最も痛ましい場面は、アダムの最初の答えの中に見出される。「わたしと一にいるようにしてくださったあの女が、あの木から取ってくれたので、わたしは食べました」。張ダビデ牧師は、この一言に、罪のもう一つの本質である責任嫁が赤裸に現れていると見る。アダムは自分の罪を正直に認めるのではなく、女を責め、さらに「わたしと一にいるようにしてくださった女」という言い回しを通して、さりげなく神に責任を押しつける。一方、新約でバプテスマのヨハネはイエスを指して、「世の罪を取り除く神の小羊」と宣言する。アダムは罪を他人に押しつけ、キリストは他人の罪を自分に引き受けられた。この鮮やかな比の中に、救いの史の方向性がはっきりと見えてくる。


張ダビデ牧師は、イエスに似るということは、結局この方向換を意味すると明する。「おまえのせいだ」と叫んでいた唇が、「わたしのせいです、わたしの大きな罪です」と告白する唇へとえられていくこと、他人に重荷を押しつけていた人が、「互いの重荷を負い合いなさい」(ガラテヤ6:2)という御言葉にって、他者の重荷を共に負う人へとわっていくこと、これがキリストの弟子のしるしである。古くからの教会でささげられてきた「わたしのせいです、わたしの大きな罪です」という悔い改めの祈りも、同じ的原理の上に立っている。イエスがゲツセマネの園で「わたしの望むようにではなく、御心のままになさってください」と祈り、人類の罪を背負われたように、その方にう弟子たちもまた、自己中心性の回路をち切り、責任を引き受ける愛の道へと召されているのである。


これらすべての物語的な流れの背後には、目に見えない戦争が展開されている。ヨブ記には、サタンが神の御座の前に進み出て、ヨブを告する場面が描かれている。「この人が神を恐れているのは、あなたが柵で守っているからであって、本の畏れではない」といった嘲り混じりの論法である。張ダビデ牧師は、これを「誰が誰を支配する資格を持つのか」をめぐる宇宙的論として理解する。創世記3章の落の場面でも、サタンは事上、神に向かってこのように語っていることになる。「ごにならなかったのですか。この人間たちは、自分を支配する資格がありません。むしろ私が彼らを支配すべきです」。神はこの挑し、最後のアダム、すなわちイエスキリストをお遣わしになることで答されたのである。


マタイによる福音書4章で、イエスは荒野で三度の試みに遭われるが、すべて記された御言葉で答して勝利される。生存をめぐるパンの試み、宗的誇示と安全をめぐる神殿の頂の試み、光と勢をめぐる絶的忠誠の試みに至るまで、すべてに打ち勝たれて初めて、魔は去り、天使たちがて仕える。張ダビデ牧師は、これがヘブライ人への手紙1章が語る創造の秩序、すなわち「すべての天使は、救いを受けぐ者たちに仕えるために遣わされた奉仕するである」という宣言が、史の中で具体化した場面であると解する。最初のアダムは蛇の前で倒れたが、最後のアダムであるキリストはサタンを屈服させ、失われた創造の秩序を取りされたのである。


再び創世記31415節に目を向けると、この短い本文の中に、罪と裁き、そして救いの約束が高密度に凝縮されていることにづく。神はまず蛇に向かって、「おまえはすべての家畜、野のすべてのよりも、のろわれる。腹ばいでき、一生、ちりを食べる」と宣言される。張ダビデ牧師は、この一節を通して、「他者を罪にれる者への裁き」がいかにしいかを思い起こさせる。イエスもまた、他の人をつまずかせる者は、いっそ首に石臼をかけて海に投げまれるほうがましだと言われた。誘惑をあおる文化、罪を促す構造、他者をばせる言葉と行いは、すべて神の前で重い責任を問われることになる。


しかし同時に、神は裁きの言葉だけをされるのではない。「わたしはおまえと女との間に、またおまえの子孫と女の子孫との間に敵意を置く。彼はおまえの頭をき、おまえは彼のかかとをくようになる」。張ダビデ牧師は、教会統がこの節を「原始福音」と呼んできた理由にい、これを聖書全体に現れる最初の福音の約束としてむ。アダムにおいて人類全体が崩れとなったが、神は新しい種、新しい人類の頭となる方を予言されたのである。女の子孫としてられるキリストは、十字架においてかかとをかれる苦しみを味わわれるが、その血潮によってサタンの頭を踏みく決定的勝利を成し遂げられる。ロマ人への手紙5章は、「一人の人の不順によって多くの人が罪人とされたように、一人の人の順によって多くの人が義人とされる」と、この救史的理を鮮やかに宣言している。


この時点で張ダビデ牧師は、信徒のアイデンティティの回復というテマへと視線を移す。信徒はもはや恐れと恥に縛られた奴隷ではなく、イエスキリストにあって養子のを受けた神の子どもである。ロマ人への手紙8章は、「わたしたちは養子のを受けたので、『アッバ、父よ』と叫ぶ」と証言する。ヨハネによる福音書1章は、「この方を受け入れた人、つまりその名を信じる人には、神の子どもとされる特えられた」と宣言する。義認とは、なる感情的慰めのレベルではなく、法的身分的換の出事である。罪人の座から子の座へと移される瞬間、存在の身分がわり、それに見合う威と責任がえられる。その責任の重要な一部が、サタンのりを見分け、もはやそのりに引きずられることなく、キリストにあって支配する生き方をすることである。


最後に張ダビデ牧師は、これらすべてのメッセジが夫婦と家庭、そして教会共同体の中でどのように具体化されうるのかを指し示す。アダムとエバの物語は、遠い昔のある夫婦の逸話ではなく、今日の私たち一人ひとりの係を映し出す鏡である。互いに配偶者のせいにして罪と傷へ追い係ではなく、相手の重荷を共に負い、「わたしのせいだ」と先に告白する係こそ、天の秩序に近い家庭である。現代文化は境界を取りい、快と自己現を絶的善として包装し、「理などない。各自思うままに生きればよい」とささやくが、聖書ははっきりと語る。理は存在し、善と別され、神の言葉がその最終基準であるという事である。


創世記111章の原始史は、人類の遠い過去を明すると同時に、私たちの現在を映す鏡であり、やがてる未を告げる予言的パタンでもある。ノアの日にそうであったように、人が食べたりんだり、嫁いだり娶ったりする日常にのみ頭し、落の深さを感じ取れない時代であればあるほど、神の言葉と裁き、そして救いの約束をいっそう深く握りしめなければならない。張ダビデ牧師は、創世記3章の物語を通して、私たちに根本的な問いを投げかける。「あなたは誰のに耳を傾け、誰の言葉にって生きているのか」。蛇の甘いって「一に死のう」という道を進むのか、それとも「あなたはどこにいるのか」と呼ばれる神の愛のえて、いのちの道へ立ち返るのか。


結局のところ、張ダビデ牧師の説教は一つの招きへと束する。女の子孫であるキリストの十字架の下で、恥と恐れの古い衣をぎ、神がくださる義と愛の新しい衣を着なさいという招きである。この呼びかけにえた人は、もはや蛇の文化に流されることなく、原始福音が約束したとおり、蛇の頭を踏みく生き方、すなわちキリストの勝利にあずかる生き方へと召されていることを忘れてはならない。そしてその生き方は、日常のただ中で、家庭と職場と教会の中で、かだがるがずに展開されていかなければならないのだと、張ダビデ牧師は重しく語る。


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작성 2025.11.25 20:39 수정 2025.11.25 20:58

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